初七日法要の後、お寺様がご法話をされるのを一緒に聞いています。
お葬儀までは、お顔もみれて、肌の柔らかさも感じることができていたのに、こうしてお骨になられ、ご家族のみなさまは今ようやく現実を感じ、やるせないお気持ちではないでしょうか。
時に、「その悲しみもきっと時間が解決してくれるよ」と励ましてくださる方もいらっしゃいますが私は、その言葉はなんとも無責任ではないだろうか、と思うんです。
そして、童謡詩人 金子みすゞさんの詩を拝読されました。
「さびしいとき」
私がさびしいときに
よその人はしらないの
私がさびしいときに
お友達は笑うの
私がさびしいときに
お母さんはやさしいの
私がさびしいときに
仏さまはさびしいの
「私」がさびしい時と他者との関わり方を書いた詩です。
全くの他人は、気持ちをわかってくれません。
お友達は、気持ちを察してくれて明るく振舞ってくれるのですが、本当のところはなかなか通じません。
母親は、さびしい私をじっと見つめて、一方的に励ますことはしないでやさしく接してくれます。
しかし、私には本当の意味でさびしさを共有できる、丸ごと受け入れてくれる存在が必要なのです。
私がさびしい時にがんばれと励まされるより、心に寄り添うように「さびしいね」と言われることの方がどれだけ寂しさが和らぐでしょう。
あなたの悲しみ苦しみは、私の悲しみ苦しみであり、あなたの喜びは私の喜びである、といつも共に同じ立場に立って慈悲の眼差しをもって見届けてくださる大きな力(はたらき)を仏様というのでしょう。
私がさびしい時、仏様も一緒にそのさびしさを背負ってくださる、そういう仏様のお心が聞こえた時、「私」の心は安らぎ癒されるのではないでしょうか。
人は、苦しい時やつらいこと、生きることの厳しさにつまずいた時「孤独」ということを実感します。
その時に一番欲しいものは「共に」という存在であり、自分をそのままの姿で尊い存在であると認めてもらえる世界です。
仏教の教えとして、「一切の衆生を必ず救う」という願いが示されています。
今、故人様は仏様となられ、この先ずっと寄り添い、導き、見守ってくださいます。
今年も、残り1ヶ月となりました。
一年の終わり。
新たな年を迎える前に、やり残したことがないか。
まずは大掃除ですね。
忙しい一か月になりそうです。
皆さまも体調を崩されませんように。
平安会館・文十鳳凰殿
藤原 恵美
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